第19話

 その日の夜、いつものようにルーカスが私の部屋をたずねてきた。

 顔をあげ、まっすぐルーカスの顔を見つめる。数日ぶりにしっかりと真正面から見たルーカスの顔は、なんだか疲れているように見えた。

「ルーカス、お疲れさま」

 そう声をかけると、ルーカスは赤い瞳を見ひらき、その顔に驚きの色を宿した。

「どうしたのです? 今日は機嫌がいいのですか?」

 近づいてくるルーカスに軽くうなずく。

「そうかも。気分がいいみたい」
「そうですか。それはよかった」

 どこかうれしそうに、ルーカスはやわらかく表情をゆるめる。そして優雅な足どりで私のそばに歩みより、手を伸ばしてくる。強く引き寄せられ、たくましい腕の中にとじこめられた。

「すみません。すこし、疲れました」

 弱音をはくような小さな声が、耳もとで響いた。私の肩に、ルーカスの額が乗る。

「すこしだけ……すこしの間だけでいいので、このまま、じっとしててくれませんか?」

 答えるかわりに、私はルーカスの背中に手をまわした。

 抱きしめられる力が、さらに強くなる。

 こうしているとわかるが、ルーカスは意外とたくましい体つきをしている。おだやかで、のんびりとしたいつもの風貌からは想像できないほど、これは手練れの体だ。剣術の達人という言葉が、ふと頭をよぎった。

「ローゼ、あなたは、いい香りがしますね」
「そう? それはこのお城のものだと思うよ」
「とても癒される匂いです」

 さらに引き寄せられ、隙間がないくらいぴったりと体がくっつく。耳もとでルーカスの呼吸音が聞こえた。あまりにも近すぎる距離に、今さらながらすこしだけ体がこわばる。
 それをなだめるように、ルーカスが私の背中をなで、私はルーカスに身をあずけるように、ゆっくりと体の力をぬいてもたれかかった。

「ローゼ。なにか、ありましたか?」
「なんで? なにもないよ」
「そうですか……」

 ルーカスはそう言って、私の首筋に顔を寄せた。

「今日のあなたは、とても、かわいらしいので」

 囁くような声が、鼓膜をくすぐっていく。

「なにか、あったのかと」

 ふと、黒塗りの馬車が頭の中に浮かびあがった。それをかき消すように、私はルーカスの背中にまわしていた腕に力をこめる。

「ルーカスこそ、なにかあった?」

 ルーカスはいつも優雅な雰囲気をかもしだしていて、このような疲れた素振りを見せることはない。
 こうやって、誰かに頼りたくなるほど、グランシード王国が緊迫しているのだろうか。

 ルーカスは、ため息が混ざったような息をはきだし、私の髪を片手で梳く。

「いえ、なにもありませんよ」

 ルーカスはそうやって、平然とごまかす。
 私に言っても仕方がないと、そう思っているのかもしれない。
 たしかに私は、雨を降らせようなんて素振り見せなかった。

 だけど。なぜだろう。

 突き放されているようで、胸の奥が小さく軋む。

「うそつき」

 恨みがましくつぶやいて、顔を強く押しつけた。

「弱りましたね。今日のあなたは、一段と私を惑わす」

 ルーカスの顔が、私の首筋をくすぐっていく。

 なにもないはずなんて、ない。

 あの黒塗りの馬車は、ここ最近何度も見かけた。グランシード王国からの使者が来ているのだろう。国家間での大きな問題になりつつあるのかもしれない。

 私のせいだと、そう言えばいいのに。私が雨を降らせないからだと、私を責めればいいのに。

 私のせいで大切なものがなくなりそうなのだと、そう、突きつければいいのに。

 どうして、ルーカスはそう口にしないのだろうか。

「ルーカス」
「どうしました?」

 ルーカスのもとに訪れるグランシード王国の者。こうしている間にも、刻一刻と干ばつはすすんでいく。

 もしもグランシード王国のものたちが干ばつに恐れをなして、他国の侵略を企てたなら、まず一番の標的となるのはここ、ファイミリア王国だろう。グランシード王国と隣接しているのは、この国だけだ。
 そして、ルーカスはこの国の第二王子であり、王位継承権を持つ。

 真っ先に狙われるとしたら、きっとルーカスだ。

 そう考えて、背筋がゾッとした。
 ルーカスがいなくなったら、この国の者はどうするのだろう。国の未来は? 子どもたちは?
 そして、私は?

「ローゼ?」

 広い背中にまわしている手に、力をこめた。
 かすかにルーカスの心臓の鼓動が聞こえ、顔を押しつけてその鼓動を感じる。

 干ばつが深刻化し、国家間での争いに発展したなら、ルーカスのこの鼓動は、止まってしまうのだろうか。

 嫌だと、強く願う私がいて、驚きながらもルーカスにしがみつく。

「どうしました? 私はうれしいですが……。ローゼ?」

 大切なものを、守りたい。

 それはきっと、この世に生きる人々みんなに共通しているはずだ。

 そして、私は。

 私は――

「ローゼリッタ」

 低い、かすれた声が、静かな部屋の中に響く。いつもとは違う、真剣な声音だ。

 ルーカスの手が、私の髪をなだめるような手つきでやさしく梳いた。

「ローゼ、このまま、上を向いてください」

 言われるままに、私は顔をあげた。すぐ目の前に、赤い瞳があった。
 驚いて身を引いた瞬間、ルーカスの眉が不満げに形を変える。すぐに頭のうしろを大きな手にとらえられ、強く引き寄せられた。
 自分の青い毛先がなびいたのが、目の端に映りこんだ。

「ローゼ。ローゼリッタ」

 今にも壊れる砂糖菓子をつかむような繊細さを感じさせる声で、ルーカスは私を呼ぶ。
 答えようと口をひらいたが、それは目の前にある赤い瞳に射抜かれた瞬間、声とはならず、かすれた息だけが虚しくあふれた。

 顔と顔がゆっくりと近づいていく。彫刻のような端正な顔立ちが迫り、心臓の鼓動が早まった。視線が絡みあうと、赤い瞳は獲物を見つけたかのように細くなる。

 ゴクリとなった喉の音は、どちらのものだったのだろうか。

 軽く吐息が触れ合う距離にまで、顔が近づく。
 部屋に満ちる空気が、とても甘いものに思えた。脈が速くなり、呼吸が苦しくなる。

 ルーカスの瞳の奥に、真っ赤にゆらめく、炎が見えたような気がした。

 ルーカスが首をかたむけ、さらに顔を寄せてくる。唇が触れ合ってしまいそうで、恥ずかしさに耐えきれず、私はきつく目をとじた。
 その瞬間、ルーカスの動きがピタリと止まる。

 やがて小さなため息のような音が聞こえ、ついで、私の頬にやわらかな感触が触れた。それはすぐに遠のき、ふたたびたくましい腕にきつく抱きしめられる。

 ふれられた頬が、燃えているかのように熱い。

 ジクジクと熱を持ち、それは全身へと広がっていく。
 なにをされたのか理解するのと同時に、嫌だと思わなかった自分に驚く。

「すみません。なんだか今日は、のんびりとお話できそうにありません」
「う、うん」

 湧きあがってくる恥ずかしさをごまかすように、額をルーカスの胸もとに押しつけ、顔を寄せる。すこし早い、心臓の鼓動が聞こえた。
 あまり表情が変わっていないというのに、ルーカスも私と同じようにドキドキしているのだろうか。

「あなたが、あまりにもかわいらしくて……。すみません、怖かったですか?」
「う、ううん。怖くは、なかった、けど」
「けど?」
「し、心臓がうるさくて、頭ぐちゃぐちゃっていうか」

 心のなかを吐露するように、早口に言葉をつむぐ。

「ローゼリッタ」
「なに?」
「キスしてもいいですか?」
「なっ!」

 あまりにも軽く放たれた言葉に目を見ひらき、ルーカスを見あげる。目があうと、ルーカスはすこしだけ首をかしげる。

 ルーカスの赤い目には、甘い、男の人の色が宿っているように見えた。

「だ、だめ」
「なぜです?」
「だって、そういうのは、恋人とかじゃないと、と、とにかくだめ! も、もう帰って!」

 ルーカスの体を引きはがすために、強く手で押す。

「そうですか、残念です」

 あまり残念と思っていなそうな声音でルーカスはつぶやく。

「あなたに嫌われたくはないので、今日はこれだけで」
「え?」

 素早く私の額に触れた、ルーカスの唇。呆気にとられている間に、ルーカスは優雅にほほ笑み、私に背を向ける。

「それでは、おやすみなさい。ローゼリッタ」

 ルーカスはそれだけ言い残して部屋を出ていった。

 やがて、羞恥に打ちふるえる私に、部屋に入ってきたマリーが不思議そうな顔をしたのが、いたたまれなかった。

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